うつ病、無職の雑記帳

孤独です。しあわせになりたい。

桃源郷

むかし、むかしのお話、ここ数年のうちに役所へ就職した若者には信じられないお話です。


私が役所に入った20年前は職場にコンピューターもなく、内部統制なんて言葉もなく、職場全体にのんびりした空気が広がっていて世間一般の倫理観に従って働いていれば誰からも非難されることなく働くことができました。


私が新人として配属された職場はある工業製品の許認可権を持った職場でした。なので、不特定多数の方々を相手にするのではなく、特定の業種の登録担当者と繰り返し合うようになります。すると人間的な付き合いも生じるわけです。


商品の認可がおりれば、登録票を受け取るためにメーカーの登録部長が4~5人の部下を連れてお礼を述べに来ましたし、お盆と年末にも同じように挨拶に訪れました。そして、その際に1社あたり約5枚のビール券を置いていってくれました。メーカーの総数は中小も含めれば百はあったと思いますが、律儀に挨拶にくるのは20社前後ではなかったでしょうか。そのうち30枚くらいを本省へ上納していました。当時の霞ヶ関では円の他にビール券が第二の通貨として流通していて、よそに頼み事をしたりするときにビール券で支払うという経済が当時はあったのです。それでも手元に70枚残りますから、すごい枚数です。


ビール券の管理は新人の役目で、新人はビール券を使って職場の冷蔵庫に充分な数のビールが常に冷えた状態にしておくようにするのが仕事でした。寒い時期はたまにしか飲みませんでしたが、夏は17時の就業時間終了を知らせるチャイムが鳴ると冷えたビールを冷蔵庫から持ってきて職場で飲みながら1時間ほど談笑して帰宅するのが常でした。メーカーの人もそのことを知っていて、17時以降も用があって残っていたメーカーの担当者も誘われて、一緒に和やかに談笑したものです。


可笑しかったのは、メーカーに就職して一年目の新入社員が17時になってから来所し、挙動不審な様子でウロウロしていたので訳を尋ねると、


「役所の人と酒が飲めるようになって一人前だ。今から一人で役所へ行って役所の人達と飲んでこい」


と15時ころに上司から命令されて一人でやってきたとのことでした。なんてむちゃな会社だと私は思いましたが、この彼の会社は名前を聞けば日本人なら誰でも知っている東証一部上場企業です。気の毒に思い、私は自分の課へ連れて行き、職場の先輩に訳を話して、彼を含めた3人で飲み始め、人が10人くらいに増えたところで役所を出て居酒屋で21時くらいまで飲みました。先輩は彼に意地悪な命令をした上司がまだ若造だったころの失敗談をあることないこと話して聞かせたので、始めは居心地が悪そうだった彼も笑いながら私たちと一緒に飲んでいました。言っておきますが、ちゃんと割り勘でしたよ。


他にも独身の女性担当者に限った話しですが、誕生日に私たちでケーキを用意しておき、窓口を訪れたさいにこっそり人目に付かない部屋へ連れていって誕生会をやったりもしていました。いまならセクハラでしょうか?


そんな桃源郷みたいな職場でしたが、顔も名前も知らない先輩たちが不祥事を起こすたびに再発防止策が設けられ、少しずつ息苦しい職場へ変わっていきました。劇的に変わったのが1996年に厚生省の事務次官が後に「特別養護老人ホーム汚職事件」と呼ばれることになる事件に荷担してお縄になった時です。

 

このときの変化はまさに激変でした。監督官庁がメーカーの担当者と会食するさいの規則、受け取って良い物などが事細かに文書にされて全ての役人に通達されました。通達後は、働く上での禁止事項を覚えるだけでも一苦労するような職場でシステムの一部になりきって働くようになり、自分がまるで大きな機械の部品になったような気分になりました。


その通達により金券は受け取ってはいけないことになったのですが、手帳やカレンダーは良いとなっていたので私はもらっていました。しかし、メーカーの担当者から聞いた話では事件当時の厚生省では年末の挨拶に訪れた民間人が置いていった手帳やカレンダーをわざと外来者に見えるようにしてゴミ箱に棄てていたそうで、ゴミ箱から溢れ出た手帳やカレンダーを見て、かえって嫌な気分になったとのことです。


今の役所ではメーカーの担当者と仕事以外のコミニケーションを取る人は皆無になりました。なので、申請に来るメーカーの担当者を


「○○社の担当者」


としか認識しなくなり、かつてのように担当者の趣味や果ては誕生日まで知っているなんてことは一切なくなりました。


一握りの倫理観の欠如した役人のせいで人間らしい付き合いが無くなってしまったことを寂しく思います。