あすにはなろう

思ったことをとりとめもなく書いてます。何のまとまりもありませんが、読んでいただけたらうれしいです。

私は理化学研究所で奴隷だった

私は今から三十数年前に東京都内にある三流私立大学の理学部に在籍してました。

 

理科系の学科へ進学した人なら分かるかと思うのですが、4年生になると卒業研究をさせてもらえます。

 

研究室へ入ると教授に呼ばれて、

 

「あなたには和光市にある理化学研究所へ行ってもらう」

 

と言われました。このときが運命の分かれ道だったのですが、このときは何もわかっていません。まぁ、奴隷になると分かっていても回避する手段はありませんでした。なぜなら、卒業研究はとってしまうと卒業必修単位となり、これを落とすことは留年を意味したからです。

 

私は理学部化学科でした。そして、私の担当教官になった先生は稲の研究をされている方とだけ聞かされていたので、てっきり稲の生理について化学的アプローチで研究している人とばかり思っていました。

 

初対面の印象は《お爺さん》です。年齢を聞くことなく卒業したので当時の正確な年齢は知りませんが、定年間近の先生だったことは確かです。この爺さんを以後、Hと表記します。私は、あれから30年以上たった今もHを憎んでいるので敬称はつけません。

 

Hは化学の先生ではなく、農芸化学の先生でもなく、農学科の先生でした。それも野生の稲の形態を観察して分類し、珍しい野生稲の種を保存する仕事をずっとしてきた人でした。

 

「思ってたのと違う。こんな人で大丈夫なのか?」

 

と不安になったのですが、この不安は的中して、卒業までの一年間を私は惨めに過ごすことになります。

 

私が理研にいる間、あてがわれた机は農機具をしまっておく倉庫にあり、その机の上にも物がうず高く積まれたままで埃も積もってました。

 

「今日、私がやって来ることは分かっていたんだから、せめて机だけでもきれいにしておくもんだろう。ひょっとして、なめられているかも。」

 

と不安になりました。

 

理研にはいろいろな大学から卒業研究に来ている学生がいたのですが、農機具倉庫を案内された日には、

 

「他の学生も同じようなものなんだろう」

 

と考えていたのです。ですが、私と同じ研究室に日本女子大からやってきた学生は研究員の人たちがデスクワークする清潔な部屋に机を与えられ、おまけに当時最新のアップル製コンピュータを貸与されているではありませんか!

 

卒論はワープロで清書することが大学から指示されていたので、当時、パソコンもワープロも持っていなかった貧乏学生の私は待遇の差が身に染みて堪えました。

 

私の大学と日本女子大でそんなに身分に差をつけられるとは思ってませんでした。このことは卒業するまで改善されず、仕方ないので安いワープロ専用機を自費で購入して卒論に対応しました。

 

そしていよいよ、私の仕事の説明が始まりました。仕事はHが生涯をかけて集めてきた野生稲の育種です。Hは東南アジアを探検して珍しい野生稲の種をたくさん持っていたのですが、長年保管しておくと発芽率が悪くなって、最終的には使い物にならなくなるので、何年かおきに水田で育ててやり、種を取ることで未来へ遺伝子をつなぐ必要があるのです。

 

私は、朝、理研に着くと、Tシャツと短パンに着替えます。野生稲が栽培されている温室は東南アジアの気候に似せてあるので高温多湿なのです。この格好でも30分も作業すると汗だくになります。

 

作業は稲穂に紙の袋をかぶせる簡単な仕事なのですが、温室が広くて水耕栽培のポットが50個くらいあり、そこから次から次へと稲穂が出てくるので、袋かけだけで2時間(水分補給のための休憩時間を含めると3時間)かかりました。これだけで午前中は終わりです。

 

昼休みは1時間あったのですが、40℃近い室温と高湿度の温室で3時間作業すると大学生の体力をもってしても疲労が蓄積し、私は昼食後は椅子にもたれてずっと昼寝してました。

 

午後は屋外の畑の草取りです。普段は軍手をはめて手で抜いていましたが、夏になると手作業では追いつかないので、ガソリンエンジンで動く草刈り機で雑草を刈ってました。炎天下の中、麦わら帽子をかぶって草刈り機を振るう理学部化学科の学生はあの頃の日本に私一人だったと断言します。

 

草取り自体は13時から15時までに終わりました。15時からは研究員の人たちも交えてお茶の時間だったので私も若い研究員や院生の人たちとお喋りしてました。16時にお茶休憩がお開きになり、それからは私の研究が始まるはずなんですが、Hは私を放置。この放置は卒業するまで続き、Hからは労働以外の指示をされたことがありません。Hが私を労働力としか見ていなかったことが分かります。

 

16時から定時の17時まで私は農機具倉庫で居眠りをして過ごしてました。農機具倉庫は研究員の居室と実験室から遠く離れた場所にあって私しか近寄らない場所だったので、一年間この調子であったにもかかわらず、居眠りを注意されたことはありません。いかに辺境へ追いやられていたかがわかるエピソードです。

 

私が奴隷として労働している間、Hが何をしていたかというと、午前中はスポーツ新聞を読んで時間を潰していました。

 

「イイご身分だよな」

 

と大学生だった当時の私でさえ思っていました。

 

昼休みの始まりを知らせる鐘が鳴るとHは食堂へすっ飛んでいき、食事が終わるとテニスコートへ行って昼休みの終わりを知らせる鐘が鳴るまでテニスです。

 

Hが研究室に帰り着くころにはとっくに就業時間になっているのですが、Hはのんびり歩いて帰って来て、体操着のまま冷たい麦茶なんかを飲んでから着替えて、学会誌を読むふりをして15時になると休憩室へ行ってお茶菓子を食べながらお茶とお喋りを楽しんで16時まで過ごし、そこからまた学会誌を読むふりをして、17時に就業時間終了を知らせる鐘が鳴ると、明るい季節はテニスコートへすっ飛んでいき、暗くなるまでテニス三昧でした。

 

Hの働き方を見ていると、60の定年までこのまま無事に過ごして退職金を満額もらって辞めることしか頭になかったように思います。一緒にいた一年間、本当に何も実験をしませんでしたし、暗くなってテニスができなくなると酒ばかり飲んでました。

 

始めは飲みにケーションで親交を深めれば勉強を教えてくれるかもと考え、先生たちの飲み会に参加してましたが、雑用(おつまみの調理)ばかりやらされたあげく、後片付けまでさせられて何の成果もない日が続いたので秋ごろには飲み会に参加することは止めました。まぁ、その間の救いはタダで酒が飲めたことくらいです。

 

こんな生活でしたから、月イチで行われる出身大学の研究進捗発表会は恥ずかしくて身の置き所がありませんでした。

 

理学部の化学科だから、みなさん数百万円から数千万円もする分析機器を操作して研究してるんです。そのなかで毎回、何の進歩もなく、

 

「私は野生稲のお世話と畑の草取りをしていました」

 

と一年間報告していた私の惨めさを分かってくれる人はいるでしょうか?これだけ何も教えてもらえずに労働だけさせられて無給だったのですから奴隷以外の何物でもありませんでした。


今日も日本中の理科系の大学で卒業研究されている大学4年生がいると思うのですが、私同様にハズレの教官にあたってしまった方がいると思います。

 

卒業研究はどこの大学でもとってしまうと必修科目になってしまうから、教官に反旗を翻すなんてできません。その弱みにつけこんで、学生を無給で使える労働者とする大学関係者がいるのですが、そんな奴らは本当に絶滅してほしい。

 

あれから30年以上経ちましたが、あのときは我慢するよりなかったと思います。我慢したおかげで卒業することが出来て、就職もできたからです。

 

でも、理科系の大学へ進学した学生にとって、卒業研究って4年間で一番楽しい一年じゃないかと思うのです。それを台無しにされた恨みは今も忘れません。きっとHは鬼籍に入っていると思うのですが、生きている間に顔面にパンチできなかったのが残念です。

 

ここから私が学んだことは、人生は努力じゃどうにもならないことがある、人生は運が半分、不遇のときは全部自分のせいだと思わないことです。